震災5年の節目に。
2016.3.11
今日で震災から5年がたちました。ブログではあまり震災に触れることはありませんでしたが、一つの区切りとして今の思いを述べてみます。
(当時年長だった息子も今年は6年生になります。)
あの日は出荷日で、朝から収穫と調整、箱詰めに追われていました。午後になり作業もひと段落したので、僕と研修生は機械倉庫で機械の調整をしていて、そこに地震がやってきました。頭上から色んな道具が降ってきて、あわてて倉庫から飛び出すと周りの山の杉の木が激しく揺れてそこから花粉がまるで山火事のように立ち上ったのを昨日のことのように思い出します。よろよろと自宅の前まで歩いたところで2度目の揺れがやってきて、縁側で妻が窓を開けたままキャーッと叫んでいました。
その後、僕は家族を家に残して消防団の巡回に出動して町内を巡回、常陸太田につながる国道の被害状況などの情報を仕入れて夕方帰宅して、すぐに配達に出ました。国道は通れないことが分かったので隣村へ抜けて市街地に到着。とにかく国道はものすごい渋滞だったので裏道を通りながら配達を終えました。こういう大変な事態の時こそ野菜を届けることが消費者と直接つながっている生産者の使命だと思っての行動でしたが、のちに妻からは「大変な時に家にいなかった」となじられましたね。しかしこの時の野菜がその後一週間以上続いた物資不足の日々の役に立つことができたのは、生産農家としてとても嬉しいことでした。しかし厳密にはこの時に出荷した野菜が、福島第一原発事故により汚染されていない最後の野菜になった訳です。。。
震災に遭ってから、自分なりにどう現実と向き合い立ち上がっていったかについては、2011年に茨城新聞に連載させて頂いた「茨城論壇」(リンク張ってあります)に詳しく、2012年3月が最後だったと思いますが、その時点で自分の中では整理がついています。是非読んで頂ければ幸いです。
その後も色んなことがありながらも、人と出会い、人に支えられて、この地で元気に営農し続けられています。まずはそのことに感謝したい。一方で、豊かに広がるこの地の山林、そこに生きる様々な動植物への放射能汚染は未だに根深いものがあります(今はほとんどが不検出ですけどね)。春になれば山に入って山菜を採り、イノシシが捕れたらみんなで分け合って鍋を囲むという、山里の食生活は滅んではいない。けれどそれを心から楽しめない、子供に食べさせることを躊躇してしまう自分たちがいます。農地や農産物に比べると、自然界への影響ははるかに長期間にわたって残ることは、チェルノブイリ後のヨーロッパにおける調査でも実証されています。そのことについて、いったい誰が責任を取り、補償してくれるんでしょうかね?
被災地では避難生活を続ける人が未だに17万人もいらっしゃる中で、この国は震災後どのように変わり、いったいどこへ向かおうとしているのか?はなはだ疑問なことだらけなこの頃ではあります。一方私達木の里農園がやるべきことは極めてシンプルです。もちろん原子力はこの国からなくしたい。でも原発が立地する地域の人たちは何故誘致したのでしょうか?ただ反対するのではなく、僕はそこに目を向けていたい。原発だけではありません。企業誘致、公共事業、根っこは一緒です。もちろんすべてが悪いとも思っておらず、志ある地方と企業同士がつながるのは、素晴らしいことです。でも、その土地の仕事で飯が食えない。これがすべてのスタートなわけで。農業者の兼業化は、その土地で生き続けるための手段とはいえ、その端緒でもある訳で。
であるなら、僕たちがやるべきことは
「専業農家として生きる。」
ただそれだけです。
そして、その取り組みを地道に続けながら進化させて、これからの時代を担う若者に引き継いでゆく。その思いを強くしてくれたのが311の震災であり原発事故でした。あと2時間ほどで2時46分です。失われた多くの命と志、そして、これから自分たちが作り上げてゆく楽しい未来へ向けて祈ろうと思います。
合掌
(当時年長だった息子も今年は6年生になります。)
あの日は出荷日で、朝から収穫と調整、箱詰めに追われていました。午後になり作業もひと段落したので、僕と研修生は機械倉庫で機械の調整をしていて、そこに地震がやってきました。頭上から色んな道具が降ってきて、あわてて倉庫から飛び出すと周りの山の杉の木が激しく揺れてそこから花粉がまるで山火事のように立ち上ったのを昨日のことのように思い出します。よろよろと自宅の前まで歩いたところで2度目の揺れがやってきて、縁側で妻が窓を開けたままキャーッと叫んでいました。
その後、僕は家族を家に残して消防団の巡回に出動して町内を巡回、常陸太田につながる国道の被害状況などの情報を仕入れて夕方帰宅して、すぐに配達に出ました。国道は通れないことが分かったので隣村へ抜けて市街地に到着。とにかく国道はものすごい渋滞だったので裏道を通りながら配達を終えました。こういう大変な事態の時こそ野菜を届けることが消費者と直接つながっている生産者の使命だと思っての行動でしたが、のちに妻からは「大変な時に家にいなかった」となじられましたね。しかしこの時の野菜がその後一週間以上続いた物資不足の日々の役に立つことができたのは、生産農家としてとても嬉しいことでした。しかし厳密にはこの時に出荷した野菜が、福島第一原発事故により汚染されていない最後の野菜になった訳です。。。
震災に遭ってから、自分なりにどう現実と向き合い立ち上がっていったかについては、2011年に茨城新聞に連載させて頂いた「茨城論壇」(リンク張ってあります)に詳しく、2012年3月が最後だったと思いますが、その時点で自分の中では整理がついています。是非読んで頂ければ幸いです。
その後も色んなことがありながらも、人と出会い、人に支えられて、この地で元気に営農し続けられています。まずはそのことに感謝したい。一方で、豊かに広がるこの地の山林、そこに生きる様々な動植物への放射能汚染は未だに根深いものがあります(今はほとんどが不検出ですけどね)。春になれば山に入って山菜を採り、イノシシが捕れたらみんなで分け合って鍋を囲むという、山里の食生活は滅んではいない。けれどそれを心から楽しめない、子供に食べさせることを躊躇してしまう自分たちがいます。農地や農産物に比べると、自然界への影響ははるかに長期間にわたって残ることは、チェルノブイリ後のヨーロッパにおける調査でも実証されています。そのことについて、いったい誰が責任を取り、補償してくれるんでしょうかね?
被災地では避難生活を続ける人が未だに17万人もいらっしゃる中で、この国は震災後どのように変わり、いったいどこへ向かおうとしているのか?はなはだ疑問なことだらけなこの頃ではあります。一方私達木の里農園がやるべきことは極めてシンプルです。もちろん原子力はこの国からなくしたい。でも原発が立地する地域の人たちは何故誘致したのでしょうか?ただ反対するのではなく、僕はそこに目を向けていたい。原発だけではありません。企業誘致、公共事業、根っこは一緒です。もちろんすべてが悪いとも思っておらず、志ある地方と企業同士がつながるのは、素晴らしいことです。でも、その土地の仕事で飯が食えない。これがすべてのスタートなわけで。農業者の兼業化は、その土地で生き続けるための手段とはいえ、その端緒でもある訳で。
であるなら、僕たちがやるべきことは
「専業農家として生きる。」
ただそれだけです。
そして、その取り組みを地道に続けながら進化させて、これからの時代を担う若者に引き継いでゆく。その思いを強くしてくれたのが311の震災であり原発事故でした。あと2時間ほどで2時46分です。失われた多くの命と志、そして、これから自分たちが作り上げてゆく楽しい未来へ向けて祈ろうと思います。
合掌