木の里農園の歩み
photo by Ataca Maki
1997年 12月の暮れに布施大樹が研修先の栃木県から、先輩が独立記念に譲ってくれた1.5トントラックに荷物を山積みにして、茨城県北端の久慈郡里美村にたどり着き、木の里農園は産声をあげる。
1998年 ハウス・倉庫・自宅・農地50aすべて借り物、奨学金も含めて借金300万円でスタート。近所のばあちゃん達に珍しがられ、お茶のみに誘われまくる日々。秋に少し増やして面積は70a。
1999年 母死去。9/30(金)出荷日にJCO臨界事故。こういう時こそ頑張らねばと、外出禁止の町を強引に配達し、出てきてもらえなかったことも。
2000年 祖母死去。美木と結婚。式では村の先輩が手作りで盛大に祝ってくれた。しかし借家の問題で隣の集落へ転居。4年間に及ぶ通い農業生活のスタート。面積はいつの間にか110a。
2001年 タイ北部ミャンマー国境山岳地帯に新婚旅行。田んぼを始める。ひたすら手植え。秋に長女誕生。消防団操法大会に4番員で出場。
2002年 7月に台風が2回来襲。玉ねぎ初収穫するも極小粒。大雪の晩に眠りこけ、育苗ハウスを雪でつぶされる。
2003年 冷夏。元の集落の地主さんのご厚意で自宅建設に着手。井戸掘り、造成、基礎工事を色んな助けをもらいながら自力で。棟上げは移住仲間も手伝ってくれて完全人力で。この頃、慢性的な人手不足とオーバーワークで、どのように畑を回していたか、記憶なし(汗)。
2004年 6/20自宅完成。元の集落に復帰。長男誕生。野菜便りが手書きからパソコンに。しかし秋の長雨で野菜高騰するも畑の状態は最悪で、虫害が激しい秋どりのキャベツ・ブロッコリーなどの断念が頭をよぎる。
2005年 初の長期研修生受け入れで、一時的に人手不足は解消するも、人が入ることでかえって自分の実力の無さを思い知る日々。冬は厳しい寒波。
2006年 この頃から村に新規就農者が来たり、逆に苦楽を共にしてきた仲間が引っ越したりと、人の出入りが多くなる。初めて小麦を作ってうどんに加工。長い梅雨で夏野菜不作。徐々に多くなるイノシシによる被害への怒りから、地元のかかし祭りに「イノシシ撃退案山子」初出品。面積1.7ha。
2007年(10年目) さっちゃん1年間研修。次女誕生。記録的暖秋。荒れた雑木山の開墾を始める。
2008年 10年目、山の田んぼのコメが日本酒に。山と農地の循環、人の交流を目指して、仲間と「落ち葉ネットワーク里美」立ち上げ。ポット田植え機導入。
2009年 この頃から、県内の熱心な若手有機農家の勉強会に参加させていただき、技術・知識におけるガラパゴス化状態から脱出し、広い世間を知るきっかけとなる。行政や先輩農家さんの協力を得て、新規就農のための研修プロジェクト立ち上げ。
2010年 ブログ開設。若手農業者グループ「GNPクラブ」から声掛け頂き参加。色んな意味で大いに刺激を受ける。メンバーの指導で育苗ハウスとトマトハウスをフルオープンに改造。研修生第1号受け入れ。
2011年 研修生第2号を受け入れるも311(金)に震災。やはり出荷日で、破壊された国道を避けて山道を通り強引に配達。しかし研修プロジェクトはあえなく終了。一方で仲間と学校給食へ野菜の出荷を始める。5月から専門家の協力を得て、野菜・土・水等、あらゆるものの測定を開始。以降2年間、400点以上を測定。大樹が茨城新聞「茨城論壇」に1年間4回にわたり寄稿。美木は地域の仲間と月1回のカフェ「oneday cafe 里美の休日」を始める。
2012年 震災復興絡みでNHK「キッチンが走る」の取材を受ける。大樹が消防団操法大会に指揮者として出場。美木が茨城県の女性農業士を拝命し、11月に2週間ドイツ旅行もとい視察研修。
2013年 悩みに悩んで山の田んぼを返還し、青森に旅立った仲間の畑の一部を引き継いで面積は2haに。日立市の菊水食品との出会いから、農園大豆を使った納豆の販売開始。震災を機に帰郷されたデザイナーさんの全面協力でウェブサイト開設。映画の自主上映会から発展して、地元の在来作物に関わる「種継人の会」発足。
2014年 倉庫建設と作業場土間コン打設。春から日立市への直接配達を開始。研修生でなく、スタッフの受け入れを暗中模索で始める。
2015年 大樹が種継人の会で地元の箒職人さんと出会い、色々あって1~3月にかけて、夜な夜な地元の箒職人さんの元へ通い修行。箒作りの基本技術を習得。かかし祭りに2回目出品する。農園のパンフレット完成。スタッフ用の空き家を大家さんの好意でお借りする。夫婦の人生において初めてまともな車を買う。とはいえケートラだけど。
2016年 1月から、外トイレと洗い場を建設。ウェブサイトもリニューアル。暖冬のため、例年よりひと月早く種まきはじめ!と、ここまでは順調だったものの、5月一杯でスタッフが退職し、スタッフハウスは空き家に。そして追い打ちをかけるように秋は記録的な日照不足と11月の雪で野菜は大不作。仕事以外でも様々な問題に直面して、2011年以来の試練の年になる。
2017年(20年目) 気持ちを新たに20年目を迎えました。改めて、農業の楽しさを表現できる年にしてゆきたいものです!と鼻息荒くスタートしたものの、春には長女と長男が高校生と中学生に。子供3人が3年おきで卒業入学が全部重なるという事実に愕然とする。市役所から紹介された地域おこし協力隊の受け入れはうまくゆかず、スタッフハウスの空き家状態は続く。また、20年連れ添った管理機を手放し更新。10月に農園の奥の桜山で初のライブ企画「里山ピクニック」開催。これは楽しかった!
2018年 20年選手の刈り払い機更新。マニュアスプレッダー導入。地元出身の若者を誘ってスタッフに。農園のロゴマーク完成。人参ジュースのラベルも一新。若者と一緒に簡単に移動できる小型のパイプハウスを設計、建設するも、秋の2度目の台風で木端微塵に破壊される。年末に若者が近所で独立して「AYUMUAGRI」を設立し仲間が増える。スタッフハウスを返却して彼が入居。代わりに自宅奥にある別荘を山と一緒に借りて大晦日に契約する。
2019年 新たな若者をスタッフに迎える。記録的な干ばつで、1~3月まで自宅の井戸が枯れる。長い梅雨と猛暑、秋の長雨と台風15・19・21号の豪雨、年末まで続く高温傾向と虫の被害など、天気に振り回される1年となる。一方、1月からタキイ種苗の会員向け月刊情報誌「はなとやさい」にて野菜作りの連載を開始。また茨城県の農家6軒とデザイナー3名が参加したプロジェクト「いばらき農家の納豆」に参加。6月には農業の修業時代にお世話になった師匠が亡くなり、自分達の役割や残された時間について深く考えるようになる。
2020年 春に子供達がそれぞれ高校、中学、小学校を卒業。長女は家を出て京都の学生寮へ。コロナの影響で日本に足止めされていたフランスからの旅行カップルが5月に滞在。思いがけない国際交流の場になる。若手農家グループRe:Agriの仲間と月に1回のドライブスルーマルシェを始める。夏から新たなビニールハウスの建設に着手。さまざまなつながりの中で、研修ハウスを訪れる人も徐々に増えて、つながりの有り難さが身に染みる年の瀬となる。
2021年 2月から東京の美大生が2ヶ月間アルバイト。3月から箒職人さんが移住してきて週に数日アルバイト。4月から息子が世話になったサッカークラブチームの監督が週に1日アルバイト。など、さまざまな方々が農園に関わってくれる賑やかな年になる。新設したハウスでトマトとトウモロコシを栽培するも、水捌けが悪くて課題山積の船出。6月から地元里美の就農仲間と「里美ファーマーズ」を結成して、やさいバスを通じて県内の無印良品へ出荷を始める。
2022年 長女の菜月が成人。しかし美木の父母が1.3月に相次いで他界する。春から初夏が冷涼で害虫が少なく、7月に旱魃となり井戸水が枯れかかるも、秋は台風もなく豊年満作の年となる。農園の唐辛子を使って開発したペッパーソースが、茨城デザインセレクションで奨励賞を頂く。ハウス栽培2年目で勝負に出たトマトが大人気になる。など、ポジティブなこともあったが、全体的には農園の内面と向き合うとても苦しい年となる。
photo by Ataca Maki
1997年 12月の暮れに布施大樹が研修先の栃木県から、先輩が独立記念に譲ってくれた1.5トントラックに荷物を山積みにして、茨城県北端の久慈郡里美村にたどり着き、木の里農園は産声をあげる。
1998年 ハウス・倉庫・自宅・農地50aすべて借り物、奨学金も含めて借金300万円でスタート。近所のばあちゃん達に珍しがられ、お茶のみに誘われまくる日々。秋に少し増やして面積は70a。
1999年 母死去。9/30(金)出荷日にJCO臨界事故。こういう時こそ頑張らねばと、外出禁止の町を強引に配達し、出てきてもらえなかったことも。
2000年 祖母死去。美木と結婚。式では村の先輩が手作りで盛大に祝ってくれた。しかし借家の問題で隣の集落へ転居。4年間に及ぶ通い農業生活のスタート。面積はいつの間にか110a。
2001年 タイ北部ミャンマー国境山岳地帯に新婚旅行。田んぼを始める。ひたすら手植え。秋に長女誕生。消防団操法大会に4番員で出場。
2002年 7月に台風が2回来襲。玉ねぎ初収穫するも極小粒。大雪の晩に眠りこけ、育苗ハウスを雪でつぶされる。
2003年 冷夏。元の集落の地主さんのご厚意で自宅建設に着手。井戸掘り、造成、基礎工事を色んな助けをもらいながら自力で。棟上げは移住仲間も手伝ってくれて完全人力で。この頃、慢性的な人手不足とオーバーワークで、どのように畑を回していたか、記憶なし(汗)。
2004年 6/20自宅完成。元の集落に復帰。長男誕生。野菜便りが手書きからパソコンに。しかし秋の長雨で野菜高騰するも畑の状態は最悪で、虫害が激しい秋どりのキャベツ・ブロッコリーなどの断念が頭をよぎる。
2005年 初の長期研修生受け入れで、一時的に人手不足は解消するも、人が入ることでかえって自分の実力の無さを思い知る日々。冬は厳しい寒波。
2006年 この頃から村に新規就農者が来たり、逆に苦楽を共にしてきた仲間が引っ越したりと、人の出入りが多くなる。初めて小麦を作ってうどんに加工。長い梅雨で夏野菜不作。徐々に多くなるイノシシによる被害への怒りから、地元のかかし祭りに「イノシシ撃退案山子」初出品。面積1.7ha。
2007年(10年目) さっちゃん1年間研修。次女誕生。記録的暖秋。荒れた雑木山の開墾を始める。
2008年 10年目、山の田んぼのコメが日本酒に。山と農地の循環、人の交流を目指して、仲間と「落ち葉ネットワーク里美」立ち上げ。ポット田植え機導入。
2009年 この頃から、県内の熱心な若手有機農家の勉強会に参加させていただき、技術・知識におけるガラパゴス化状態から脱出し、広い世間を知るきっかけとなる。行政や先輩農家さんの協力を得て、新規就農のための研修プロジェクト立ち上げ。
2010年 ブログ開設。若手農業者グループ「GNPクラブ」から声掛け頂き参加。色んな意味で大いに刺激を受ける。メンバーの指導で育苗ハウスとトマトハウスをフルオープンに改造。研修生第1号受け入れ。
2011年 研修生第2号を受け入れるも311(金)に震災。やはり出荷日で、破壊された国道を避けて山道を通り強引に配達。しかし研修プロジェクトはあえなく終了。一方で仲間と学校給食へ野菜の出荷を始める。5月から専門家の協力を得て、野菜・土・水等、あらゆるものの測定を開始。以降2年間、400点以上を測定。大樹が茨城新聞「茨城論壇」に1年間4回にわたり寄稿。美木は地域の仲間と月1回のカフェ「oneday cafe 里美の休日」を始める。
2012年 震災復興絡みでNHK「キッチンが走る」の取材を受ける。大樹が消防団操法大会に指揮者として出場。美木が茨城県の女性農業士を拝命し、11月に2週間ドイツ旅行もとい視察研修。
2013年 悩みに悩んで山の田んぼを返還し、青森に旅立った仲間の畑の一部を引き継いで面積は2haに。日立市の菊水食品との出会いから、農園大豆を使った納豆の販売開始。震災を機に帰郷されたデザイナーさんの全面協力でウェブサイト開設。映画の自主上映会から発展して、地元の在来作物に関わる「種継人の会」発足。
2014年 倉庫建設と作業場土間コン打設。春から日立市への直接配達を開始。研修生でなく、スタッフの受け入れを暗中模索で始める。
2015年 大樹が種継人の会で地元の箒職人さんと出会い、色々あって1~3月にかけて、夜な夜な地元の箒職人さんの元へ通い修行。箒作りの基本技術を習得。かかし祭りに2回目出品する。農園のパンフレット完成。スタッフ用の空き家を大家さんの好意でお借りする。夫婦の人生において初めてまともな車を買う。とはいえケートラだけど。
2016年 1月から、外トイレと洗い場を建設。ウェブサイトもリニューアル。暖冬のため、例年よりひと月早く種まきはじめ!と、ここまでは順調だったものの、5月一杯でスタッフが退職し、スタッフハウスは空き家に。そして追い打ちをかけるように秋は記録的な日照不足と11月の雪で野菜は大不作。仕事以外でも様々な問題に直面して、2011年以来の試練の年になる。
2017年(20年目) 気持ちを新たに20年目を迎えました。改めて、農業の楽しさを表現できる年にしてゆきたいものです!と鼻息荒くスタートしたものの、春には長女と長男が高校生と中学生に。子供3人が3年おきで卒業入学が全部重なるという事実に愕然とする。市役所から紹介された地域おこし協力隊の受け入れはうまくゆかず、スタッフハウスの空き家状態は続く。また、20年連れ添った管理機を手放し更新。10月に農園の奥の桜山で初のライブ企画「里山ピクニック」開催。これは楽しかった!
2018年 20年選手の刈り払い機更新。マニュアスプレッダー導入。地元出身の若者を誘ってスタッフに。農園のロゴマーク完成。人参ジュースのラベルも一新。若者と一緒に簡単に移動できる小型のパイプハウスを設計、建設するも、秋の2度目の台風で木端微塵に破壊される。年末に若者が近所で独立して「AYUMUAGRI」を設立し仲間が増える。スタッフハウスを返却して彼が入居。代わりに自宅奥にある別荘を山と一緒に借りて大晦日に契約する。
2019年 新たな若者をスタッフに迎える。記録的な干ばつで、1~3月まで自宅の井戸が枯れる。長い梅雨と猛暑、秋の長雨と台風15・19・21号の豪雨、年末まで続く高温傾向と虫の被害など、天気に振り回される1年となる。一方、1月からタキイ種苗の会員向け月刊情報誌「はなとやさい」にて野菜作りの連載を開始。また茨城県の農家6軒とデザイナー3名が参加したプロジェクト「いばらき農家の納豆」に参加。6月には農業の修業時代にお世話になった師匠が亡くなり、自分達の役割や残された時間について深く考えるようになる。
2020年 春に子供達がそれぞれ高校、中学、小学校を卒業。長女は家を出て京都の学生寮へ。コロナの影響で日本に足止めされていたフランスからの旅行カップルが5月に滞在。思いがけない国際交流の場になる。若手農家グループRe:Agriの仲間と月に1回のドライブスルーマルシェを始める。夏から新たなビニールハウスの建設に着手。さまざまなつながりの中で、研修ハウスを訪れる人も徐々に増えて、つながりの有り難さが身に染みる年の瀬となる。
2021年 2月から東京の美大生が2ヶ月間アルバイト。3月から箒職人さんが移住してきて週に数日アルバイト。4月から息子が世話になったサッカークラブチームの監督が週に1日アルバイト。など、さまざまな方々が農園に関わってくれる賑やかな年になる。新設したハウスでトマトとトウモロコシを栽培するも、水捌けが悪くて課題山積の船出。6月から地元里美の就農仲間と「里美ファーマーズ」を結成して、やさいバスを通じて県内の無印良品へ出荷を始める。
2022年 長女の菜月が成人。しかし美木の父母が1.3月に相次いで他界する。春から初夏が冷涼で害虫が少なく、7月に旱魃となり井戸水が枯れかかるも、秋は台風もなく豊年満作の年となる。農園の唐辛子を使って開発したペッパーソースが、茨城デザインセレクションで奨励賞を頂く。ハウス栽培2年目で勝負に出たトマトが大人気になる。など、ポジティブなこともあったが、全体的には農園の内面と向き合うとても苦しい年となる。
photo by Ataca Maki