百姓の血
2011.6.27
百姓仕事には全然興味を示さなかったある人の話。
その方の両親は篤農家だった。だった、というのは、おじいさんのが亡くなられたからだ。おばあさんはまだ元気で毎日野良に出て働いている。少しずつ規模を減らしながらも直売所に野菜を出すために毎日畑通いの日々。
そんなおばあさんから、今日は畑起しを頼まれた。トラクターで行ってみると、1アールにも満たない小さな畑。息子さんに頼んでもいい顔をしないみたい。おじいさんも亡くなったし、息子さんとしてはそろそろ引退してほしいようである。しかしおばあさんはやる気満々で息子さんの気持などどこ吹く風である。
さてその息子さん。おじいさんが元気だったころは、百姓仕事をやる気は全くなさそうであった。おじいさんが働けなくなったら農地は全部貸す、などと宣言する始末。畑で会うこともほとんどなかった。
そんな人が、おじいさんの病気をきっかけに変わった。田んぼ仕事を一手に引き受けてやるようになったのだ。しかしやり方が独特であった。肥料を撒く時も、代掻きも田植えも稲刈りも、一切田んぼに入らないのである。当然四隅の「寄せ植え」もやらない。元肥なんか動力散布機で畔から撒く始末。土作りと名のつくことも一切やらない。とことん手間を省いた稲作りに疑問の声もあったが、私は彼が稲を作ること自体が嬉しく感じていたものだ。
そうこうしているうちにおじいさんが亡くなった。震災後の、確か田植え前の頃だった。それでも息子さんは田植えをした。毎日朝夕の「水回り」を欠かさず、夕方は仕事から帰って暗くなるまで草刈りをしている。ここまでは以前と変わらない日々。
ある日の夕方、私は自分の目を疑う風景に出くわした。彼が田んぼに入って四つん這いになって草取りをしているのである。あれだけ百姓を嫌っていた人が、田んぼに這いつくばっている。別人かとも思ったが間違いなく彼である。私は決して這いつくばる行為自体を礼賛するものではない。むしろ除草剤を撒いている慣行農法の方々が、草取りのために再び田んぼに入ること自体、無駄だと思っているものである。何のために薬をまくのかわからないではないか。薬代がもったいないし、薬の利かせ方を間違っているとしか思えない。
それでも私の目には、彼が田んぼに這いつくばっている姿が亡くなったおじいさんの姿に重なるのだ。やはり彼も百姓の息子、農家の血を引く者なんだという、当たり前のことに気付くのである。おばあさんにそのことを話すと「全くどーゆー風の吹きまわしなんだか・・・・」とやはりどこ吹く風のようにつぶやかれた。
彼は作った米を売らない。親類縁者に配ってしまう。つまり、彼の田んぼ仕事はお金のための労働ではない。食べるためである。里美のような山間部にはこのような「飯米農家」が多い。TPPの議論の中では間違いなく戦犯扱いされる部類の農家である。でも彼らはお金のために米を作っているわけではないので、例え採算が合わなくても関係ないのである。というか、現状で十二分に赤字だ。従って、米価がいくら下がっても彼らは米作りを続けるかもしれない。
日本農業の構造改革が叫ばれて、もう幾久しい。それでも一向に改革が進まないのは、金の為じゃない農家が多いからだと思う。そして、その底流にあるのは、日本人が代々引き継いできた「百姓の血」であろう。この血はどんどん薄まってはいる。しかし村の人々の身体にはまだ連綿として流れているようである。
私はこの血の存在を否定も肯定もするつもりはない。血がなくなれば日本の農業は変わるかもしれない。経済界が言うところの強い農業が実現できるかもしれない。一方で食べるために作ることを忘れた農業には何の魅力も感じないし、そんな農家が消費者を説得してTPP時代を生き抜いてゆけるとも思えない。
えーと、何の話だっけ・・・
もともと結論があって書き始めたものではないので、結論なし!!(スミマセン)
うちの子供らにはどんな血が流れているやら・・・・・・・・
少なくとも、意識してること以外の部分でいろいろ伝わってゆくんだろうな。
その方の両親は篤農家だった。だった、というのは、おじいさんのが亡くなられたからだ。おばあさんはまだ元気で毎日野良に出て働いている。少しずつ規模を減らしながらも直売所に野菜を出すために毎日畑通いの日々。
そんなおばあさんから、今日は畑起しを頼まれた。トラクターで行ってみると、1アールにも満たない小さな畑。息子さんに頼んでもいい顔をしないみたい。おじいさんも亡くなったし、息子さんとしてはそろそろ引退してほしいようである。しかしおばあさんはやる気満々で息子さんの気持などどこ吹く風である。
さてその息子さん。おじいさんが元気だったころは、百姓仕事をやる気は全くなさそうであった。おじいさんが働けなくなったら農地は全部貸す、などと宣言する始末。畑で会うこともほとんどなかった。
そんな人が、おじいさんの病気をきっかけに変わった。田んぼ仕事を一手に引き受けてやるようになったのだ。しかしやり方が独特であった。肥料を撒く時も、代掻きも田植えも稲刈りも、一切田んぼに入らないのである。当然四隅の「寄せ植え」もやらない。元肥なんか動力散布機で畔から撒く始末。土作りと名のつくことも一切やらない。とことん手間を省いた稲作りに疑問の声もあったが、私は彼が稲を作ること自体が嬉しく感じていたものだ。
そうこうしているうちにおじいさんが亡くなった。震災後の、確か田植え前の頃だった。それでも息子さんは田植えをした。毎日朝夕の「水回り」を欠かさず、夕方は仕事から帰って暗くなるまで草刈りをしている。ここまでは以前と変わらない日々。
ある日の夕方、私は自分の目を疑う風景に出くわした。彼が田んぼに入って四つん這いになって草取りをしているのである。あれだけ百姓を嫌っていた人が、田んぼに這いつくばっている。別人かとも思ったが間違いなく彼である。私は決して這いつくばる行為自体を礼賛するものではない。むしろ除草剤を撒いている慣行農法の方々が、草取りのために再び田んぼに入ること自体、無駄だと思っているものである。何のために薬をまくのかわからないではないか。薬代がもったいないし、薬の利かせ方を間違っているとしか思えない。
それでも私の目には、彼が田んぼに這いつくばっている姿が亡くなったおじいさんの姿に重なるのだ。やはり彼も百姓の息子、農家の血を引く者なんだという、当たり前のことに気付くのである。おばあさんにそのことを話すと「全くどーゆー風の吹きまわしなんだか・・・・」とやはりどこ吹く風のようにつぶやかれた。
彼は作った米を売らない。親類縁者に配ってしまう。つまり、彼の田んぼ仕事はお金のための労働ではない。食べるためである。里美のような山間部にはこのような「飯米農家」が多い。TPPの議論の中では間違いなく戦犯扱いされる部類の農家である。でも彼らはお金のために米を作っているわけではないので、例え採算が合わなくても関係ないのである。というか、現状で十二分に赤字だ。従って、米価がいくら下がっても彼らは米作りを続けるかもしれない。
日本農業の構造改革が叫ばれて、もう幾久しい。それでも一向に改革が進まないのは、金の為じゃない農家が多いからだと思う。そして、その底流にあるのは、日本人が代々引き継いできた「百姓の血」であろう。この血はどんどん薄まってはいる。しかし村の人々の身体にはまだ連綿として流れているようである。
私はこの血の存在を否定も肯定もするつもりはない。血がなくなれば日本の農業は変わるかもしれない。経済界が言うところの強い農業が実現できるかもしれない。一方で食べるために作ることを忘れた農業には何の魅力も感じないし、そんな農家が消費者を説得してTPP時代を生き抜いてゆけるとも思えない。
えーと、何の話だっけ・・・
もともと結論があって書き始めたものではないので、結論なし!!(スミマセン)
うちの子供らにはどんな血が流れているやら・・・・・・・・
少なくとも、意識してること以外の部分でいろいろ伝わってゆくんだろうな。